借着写双学位的毕业论文,翻译了一篇解说文。发上来给大家看看。有一些名字没有翻译好,哪天有空了再仔细修改吧!嘿嘿~~
1963年岩波书店出版的《银河铁道之夜——宫泽贤治童话集Ⅱ》后面恩田逸夫的解说文。
ふつうに宮沢賢治の童話文学といわれている作品は、大きく分けると、「童話」と「寓話」とになります。そして、「寓話」の中では、動物が主人公になる動物寓話が大部分ですし、「童話」の中でも、動物が登場する作品が目立ちます。この巻にはこのように動物が出てくる作品を中心に集めてあるます。
宫泽贤治作品中通常被称为童话文学的那一部分,大致可以分为“童话”和“寓言”两类。在“寓言”当中,以动物为主人公的动物寓言占大部分,在“童话”中,有动物出场的作品也十分引人注目。该卷主要收录了像这样的有动物角色出现的作品。
賢治が作品の中に好んで動物をとりあつかっているのは、いうまでもなく、動物に対する親しみの感情があるからです。かつて、野山の小動物たちとわたしたちが、現在の家畜のように身近にくらしていた、素朴で自然に近い時代に対する郷愁といってもよいでしょう。賢治の故郷の北東地方は、このような自然な状態が比較的長く最近まで残っていたのです。動物たちに親しむ気もちは、賢治が信仰していた仏教思想の影響も考えられます。仏教では輪廻転生といって、生命はいろいろな姿になって死んではまた生まれろことをくりかえします。だから現在の動物も過去の世では人間であったのかもしれません。すべて生物はきょうだいである、宇宙のすべてのことがらを生みだすおおもとの力から出てきた仲間であるという考え方が、動物に対する親しみの情の原因にもなっているのでしょう。それからもう一つは、つぎのように、「寓話」という文学の方法の点でも動物を扱っているわけです。
贤治之所以在作品中经常使用动物形象,自然是因为他对于动物怀着一种亲近的感情。曾几何时,山野上的小动物们就像现在的家畜一样伴随着我们,可以说这里有着一种贤治对朴实而亲近自然的时代的怀念。在他的故乡东北地区,这样的自然状态延续得相对较长,直至最近依然残留着。贤治对动物所怀有的亲近之情也可以说是他所信仰的佛教思想的影响。佛教讲究轮回转生,生命以各种形态消逝然后重生,如此不断,循环往复。所以现世的动物在前世可能就是人类。万物皆兄弟,都源于生出宇宙间一切事物的根本之力。这样的思想也可能是他对动物怀有的亲近之情的原因。此外还有另外一个原因,就是如下所述的“寓言”这种文学形态的叙事方法。
つまり、寓話というのは、人間以外の生物、とくに動物に、人間の能力や感情を与えて、人間なみに行動させ、その中に道徳的な教訓を表現しようとする作品です。とくに寓意がない場合でも、作品の中で人間のことを表現するのに、動物に代わってやらせると性格や行動などが一そう適切にはっきりと表現できるからです。それは、人間の外形はだいたい一定していて、その言動や風采によって性格を描き分けるのはむずかしいのですが、動物ならば、きわだった差別があり、それを人間にあてはめれば、印象が鮮明になるからです。
所谓寓言, 就是赋予人类以外的生物——特别是动物——以人的能力和感情,使他们像人类一样行动,借以说明某种道德教训的作品。即使没有特殊的寓意,虽然作品是要表现人类的某些东西,但代之以动物的话,性格和行动可以被更加贴切鲜明地表现出来。这是因为,人类的外形大体上是固定的,仅仅根据言行和相貌描写很难区分出角色性格,如果是动物的话,外形上就有很醒目的区别,以这样的动物形象来充当人类,角色印象就变得鲜明了。
とにかく、人間をあらわすのに動物をあてはめたり、逆に、人間以外のもの中に人間性を与えたりすることによって、生き生きした表現を生みだすことは、賢治の「月夜のけだもの」という作品を見ればよくわかります。ここに登場そる動物たちには適切な性格や行動が与えられ、どの動物も新しい生命を吹きこまれて活躍しています。
不管怎么说,明明要表现的是人类,却以动物来充当,通过赋予人类之外的东西以人性,反而产生了形象生动的描写。我们通过贤治的《月夜野兽》就能充分理解这一点。在这篇作品中登场的动物们被赋予了贴切的性格和行动,无论哪个动物都被注入了新的生命,活跃起来。
賢治は、「稜がなくて」大きくて黒い火山弾のような無生物にさえ、人間的な生命を吹きこみました。「稜がなくて」丸いのは、おだやかで円満な性格を示しているのでしょう。「気のいい火山弾」が、じぶんのすぐれている点を誇らず、じぶんの価値を他のものが理解しなくても怒ることがなく、そうかといって、ひとり超然としているのでなくて他のひとと静かにわらって応対する、これが賢治が理想とした人間の姿です。彼が、このような人であったということよりも、むしろこのような状態になりきれない要素を多分に持っていたからこそ、べゴ石のようなおだやかな心境を求め、じぶんへの戒めの意味で、こうした作品を書いたのだ、とも考えられます。賢治は、じぶんの考え方の正しさや、じぶんの作品の価値に対する強い自信があったので、それが世の中に知られぬことのさびしさやもどかしさや怒りなどを強く感じていたようです。そして、このような自分自身をよく観察して、それを作品のなかにとり入れている場合があるのです。
贤治甚至连“没有棱角”的巨大的黑色的火山弹这样的无生物都注入了人类的生命。“没有棱角”、圆圆的,大概显示着沉稳而温厚的性格。“性情温和的火山弹”,丝毫不夸耀自己的优点,自己的价值不被别人理解也不生气。虽说如此,却并不是独自一人什么都满不在乎,也与别人安静地微笑应答。这就是贤治理想中的人类应有的姿态。可以认为,与其说贤治自己是这样的人倒不如说正因为他身上有太多无法达到此种境界的因素,为了追求像べゴ石那样的平稳的心境,为了自我告诫,他才写出了这样的作品。贤治因为对自己的思想的正确性和自己的作品的价值有着强烈的自信,所以似乎也强烈感觉它们不为世人所知的寂寞、焦急和愤怒,并仔细观察这样的自己,把它们写入作品之中。
この巻の最初に収めてある「やまなし」には、谷川のかにの親子が登場しますが、とくに動物寓話ではありません。賢治はこの作品を、じぶんが名づけた「花鳥童話」という分類の中に入れています。文字どおり、花や鳥などを扱っていて、詩のような感じの漂う作品が多いのですが、単に詩的情緒だけでなく、はっきりした主張がふくまれている場合も多いのです。「なまなし」でも、五月と十二月との対照の中に一つの意味がふくめられているようです。ふつうには楽しく明るい五月に「死」があり、逆に、冷たく寒い十二月にも、谷川の底には親子のかにの楽しい団らんがある、というように、なにか人生の現実の一面を暗示しているようにも思われるのです。
在该卷收录的第一篇《山梨》中,虽然有溪涧中的螃蟹父子的登场,但却并不是典型的动物寓言。贤治将该作品归类于他自己命名的“花鸟童话”之中。正如字面所示,“花鸟童话”很多都是描写花鸟,洋溢着诗的气息的作品,但并不是只叙述诗化的情绪,很多时候也包含了明确的主张。《山梨”也在五月和十二月的对照中蕴含了某种意味。通常欢乐而明朗的五月中却存在着“死亡”,而本该冰凉寒冷的十二月,螃蟹父子却在溪底举行着欢乐的聚会。如此这般,似乎暗示着人生现实的一面。
ちなみに、賢治は、ものごとを一方的にだけ考えることはしないで、たとえば、「明」があれば、その対照の「暗」についても同時に問題にします。このように、両極が存在していること、そして、たがいに連続し交代して進んでゆくことが、この世のことがらの実際の姿である、という考え方です。たしかに、あることがらの実体をさぐる際に、それと反対のことがらと対比することによって両方の性格があきらかにされることがあります。賢治が詩の場合などに、構成上の調和に気をくばっていたり、くりかえしや対句の語法を好んでつかうのも、右のようなことと関係があるのかもしれません。「ふたごの星」もこの点で見ると、天上と海底との組み合わせです。たいへん規模雄大な童話です。とにかく、内にいくつかの対立をはらんで、しかも全体としては調和の姿でいるのが宇宙の偉大さなのでしょう。この作品も寓話ではありません。小さいひとたちにもよく理解できるかわいらしい気分の作品です。
另外,贤治从不片面地看待事物,比方说有“明”的话,也一定会同时意识到与之相对的“暗”。贤治认为,正是这样存在着两极、且二者相连又交替不断地前进,才是世间万物的实态。确实,在探究某个事物的本质的时候,可以通过与相反的事物的对比进而明确双方性格。贤治在作诗的时候,非常注意结构上的协调,经常使用反复和对句的手法,大概也也跟如上所述有所联系。从这一点出发来看《双子星》的话,就是天上和海底的组合。是一篇规模宏大的童话。总之,内部孕育着若干对立,而作为整体来看又带着调和的姿态,这大概就是宇宙的伟大。这篇作品也不是寓言,是一篇小孩子们也能够很好地理解的讨人喜欢的作品。
無邪気な子うさぎのホモイが登場する童話「貝の火」には次のような主張がふくまれています。第一に、身の危険をもかえりみず、ひばりのひなを救うことによって赤い火の燃えている宝珠を授かるのは善行には善果がある、という見やすいりくつです。第二に、悪いことと自覚しないでおこなうあやまちならば、許されること。悪がしこいきつねにだまされての行為も、それが本心からでなく無邪気におこなわれる場合には、父うさぎの心配にもかかわらず、貝の火は美しく燃えつづけます。第三に、権力のために屈して、なすべきことをする勇気を欠くときは罰を受けることです。硝子箱に閉じこめられたうぐいすの願いで箱を開こうとするが、きつねにおどされて実行できず、心にとがめて貝の火を見ると、ひとところに白い雲りができ、ついに宝珠は二つに割れ、ホモイはめくらになります。
在天真烂漫的小兔子霍毛出场的童话《贝火》中包含着如下的主张。第一,霍毛不顾自身安危救下了云雀的宝宝并由此得到了燃烧着红色火光的宝珠,这告诉我们善有善报这么一个简单的道理。第二,如果在不自知的情况下做了错事,这样的错误是可以原谅的。霍毛被狡猾的狐狸欺骗所做的事情,并非出于本意,只是天真的行事,虽然兔爸爸很担心,但贝火仍然继续美丽地燃烧着。第三,当屈服于强权,丧失应有的勇气的时候,将受到惩罚。受到关在玻璃箱子里的黄莺的请求,霍毛虽然想要把箱子打开 ,但在狐狸的威胁下没有实行,当他怀着自责去看贝火的时候,发现贝火上出现了白色的斑点,随后宝珠裂为两半,霍毛也失明了。
ここまでは、わかりやすいのですが、たいせつなのは、第四に、ふくろうが「たった六日だったな」といっているように、幸福とか完全とかいう状態も、じきに「変化」してしまうこと、第五に、父うさぎのことばに暗示されているように、好ましくないマイナスの状態でも、それを自覚することは、そこを出発点として、よりよい幸福な境地へと転じ向かうきっかけになることだ、という考え方です。よくない状態を自覚することは、その反対の、真に正しい状態はどのようなものかと、はっきりと知る手がかりになる、ということです。そして、このように「凶から吉へ」むかうこともまた「変化」ということについて述べておきます。一瞬ごとにすべてのものは変化してゆくし、また、同じものがたくさんあるように見える木の葉や砂つぶのなかにも、ひとつとして他とまったく同一なものは、けっしてありません。つまり、のです。賢治も、このように、「変化·流動」こそ、ものごとの真の姿である、と考えています。そして、すべてのものは「変化」する、ということから、それならば、どんな時にも、どんま場所でも、絶対に変化しない確実なもの、「不変」「永遠」「無限」なものはなにか、と聞いもとめてゆくのです。
到此为止都简单易懂,但重要的是第四,像猫头鹰所说的“才只有六天”那样——幸福也好,完满也好都转瞬即逝;以及第五,在兔爸爸的言语之中所暗示的——塞翁失马焉知非福。即使处于逆境之中,如果意识到这一点并以此为出发点,就有可能通向更加美好的幸福之地。也就是说,意识到挫折,可以成为明确真正正确的状态的线索。就像这样,贤治在文章中叙述着“转凶为吉”以及“变化”。万物瞬息万变,而且,表面看起来非常相像树叶沙粒之类,作为个体来看,也绝对不存在完全相同的情况。也就是说,。贤治也认为,正是“变化•流动”才是事物本来面目。如果所有的事物都处于“变化”之中,那么,无论何时、何地,都绝对不会变化的确定的东西,所谓“不变”“永恒”“无限”的东西到底是什么呢,这是随之而来的追问。
というこのことだけは「不変」の、真理ですが、この考え方をもう一歩すすめて、が存在するのだ、と考えれば、このような宇宙万象の根源力というものこそ、すべての現象を発生させ、変化させる力であって、いちばんのおおもとの原因なのですから、それ自身はほかの力によって変化させられることはありません。つまり、絶対変化しない「永遠」なものです。賢治はこのような「宇宙根源力」の存在を信じました。さらに彼は、この根源力は、ものごとをただ盲目的に発生させ、変化させるのではなくて、すべてのものが完全に調和してほんとの幸福な状態になるように変化させてゆこうとする意志をもっていると考え、これを「宇宙意志」と名付けて、この力を信仰しています。そこで、賢治によれば、人間の正しい生き方とは、人間を生み出し、人間を生活させているいちばのおもとの力である宇宙根源力の絶対的確実性·永遠性をたしかに感じとり、その根源力の意志にかなうように、すべてのもののほんとうの幸福を実現するために努力する、ということになります。くわしい説明をはぶいて要点だけを述べたのでわかりにくかったでしょうが、よく考えてみると、たいへんよくすじ道のとおった論理であるし、わかりやすい信仰です。これが賢治の思想の根本になっています。
只有是“不变”的真理,再进一步,如果认为是存在的话,这样的宇宙万象的根源之力,正是使所有的现象产生和变化的力量。因为是最根本的原因,所以它自身并不会因为别的力量而变化。也就是说它是绝对不会变化的“永恒”的东西。贤治相信这样的的“宇宙根源力”是存在的。而且他认为这个根源之力,并不是盲目地使事物产生和变化,而是怀着一种使所有的事物走向完全协调,朝着真正的幸福的状态转变的意志。贤治称之为“宇宙意志”并信仰这样的力量。因此,按贤治的意思理解就是,所谓人类正确的生存方式,就是能够直接感觉到产生人类并使人类生活着的最本源的力量——宇宙原动力的、绝对的确定性和永恒性,并努力实现万物的真正幸福,以符合这个原动力的意志。省略详细说明只陈述要点,也许有些难以理解,但仔细思考的话,其实是非常合理的理论,是很容易理解的信仰。这构成了贤治的思想的根本。
話をもどにもどしますと、要するに、変化ということは、ちょっと考えるとはかないことのようですが、じつは、それがすべてのものごとのほんとうの姿であり、しかも、それは永遠の「宇宙根源力」や、最高善の「宇宙意志」ということを考えるための手がかりになるのです。「貝の火」は六日間のできごとのうつりかわりですが、「オッペルとぞう」や「風の又三郎」も日付順を追う構成になっています。これも変化ということについての関心のあらわれです。飛ぶ鳥、流れ雲、吹きすぎる風、走る汽車など働くものが作品の題材とされることが多く、賢治の思想の中で、「時間」や「歴史」が問題にされているのも、やはり変化·流動ということに関係があるのです。
言归正传,总而言之,稍微思考一下的话,所谓变化就是是虚幻无常的东西,但实际上,这正是万事万物的本来面目,而且,它是思考永恒的“宇宙根源力”以及至善的“宇宙意志”的线索。《贝火》讲述的是六天之内事情的变化,《奥侈倍尔与大象》和《风又三郎》也是按照时间顺序来组织结构的。这也是贤治关注变化的一个表现。飞鸟、流云、吹拂而过的风、疾驰的汽车……贤治作品中以这类运动着的事物作为题材的情况非常多。他的思想中所意识到的“时间”或者“历史”等问题,果然还是跟所谓变化·流动有着联系的。
「土神ときつね」は、きつねが出てきたりして、寓話的ではありますが、もう少し別の要素も加わっているようです。「寓話よりむしろシナリオ風の物語……」とか「物語詩」という賢治の覚書?が残っています。ともかく、なにの寓意であるかは、原稿の表紙に「土神……退職教授 きつね……貧なる詩人 樺の木……村娘」というメモがあるので、だいたい解釈の手がかりが得られます。この作品の主眼は、主人公の土神の恋愛や嫉妬の感情です。それから、題名どおり土神的なものときつね的なものとの対照です。誠実だけれども粗野な土神は地方的な傾向を示し、洗煉されているがやや軽薄な点も見られるきつねは都会的な気風をあらわしているようです。両方とも賢治がもっていた傾向のように思われます。「教授」も「詩人」も、彼自身と関係があります。
《土神与狐狸》中有狐狸的出现,也算是一篇寓言,但似乎还加入了一些别的要素。“与其说是寓言还不如说是电影脚本风格的故事……”或者“叙事诗”,贤治的笔记上残留着这样的话语。不管怎么说,到底是有什么寓意呢?草稿的封面上有如下笔记:“土神……退职教授 狐狸……贫穷的诗人 桦树……村姑”,这大概可以成为我们解读作品的线索。这篇故事主要着眼于主人公土神的恋爱和嫉妒的感情。然后诚如题目所显示的那样,描写了土神之类的人与狐狸之类的人的对照。诚实却粗野的土神显示了乡土倾向,讲究却稍显轻佻的狐狸大概显示了都市风气。这二者都是贤治身上所带有的倾向。“教授”也好“诗人”也好,都跟他自身有着联系。
「ツェねずみ」「カイロ団長」「洞熊学校を卒業した三人」は、まさに動物寓話です。「ツェねずみ」は、他人の善意がすなおに受けいれられず、そしてじぶんの弱さを売りものにしているようななさけない人間、つまり、人間の卑小さというものが具体的にしめされています。いたちがツェねずみのぐにゃぐにゃした性質にはらをたてて投げだした金平糖を、このねずみは持てるだけ沢山ひろって「いちもくさんにはしって、天井裏の巣へもどって」「コチコチたべ」ているのなどは、卑屈であわれな感じがまったくよく書けています。
《次老鼠》《开罗团长》《熊洞学校毕业的三人》都是名副其实的寓言。“次老鼠”是个无法坦率接受别人的善意,总是拿自己的弱小说事的可鄙之人。将人类的弱小具体地体现了出来。黄鼠狼对次老鼠软绵绵的性格感到火大,把自己的金平糖扔出去给它。次老鼠拣了满怀的糖“一溜烟儿跑回自己天井下的洞里”“吭哧吭哧吃了起来”——贤治通过种种之类的描写,把这只老鼠的卑屈可怜淋漓尽致地刻画出来。
「ツェねずみ」は個人に関することで、「カイロ団長」は社会的なことがらに対する批判です。商業だとか、資本の運営などということが、人間生活のうえで大切なことはいうまでもありませんが、不心得なやり方だと、悪い面をもたらします。「カイロ団長」や「なめとこ山のくま」の場合などがこれです。賢治が好ましく思っているのは、生産的な勤労によって、みんなの幸福に役立つような仕事です。
《次老鼠》是对个人的映射,《开罗团长》则是对社会现象的批判。经商、理财等都是人类生活中的一件大事,太过疏忽冒失的话,会带来严重的后果。《开罗团长》和《滑床山的熊》讲述的就是此类故事。贤治常常思索通过生产性的劳动,为大家的幸福生活做出贡献。
ところで問題なのは、このような社会悪をどのように処理するか、ということです。「カイロ団長」では「王さまのご命令」で解決します。それによって、悪いものは結局しぜんにつぶれてしまうというわけです。けれども、根本的な解決は、やはり雨がえるたちみんなの力でやりとげるべきでしょう。賢治の羅須地人協会の仕事の大きな目的は、つかれている農村の生活をもっと向上させようということです。そのために、万人の幸福を実現しようとしている宇宙意志を、各自がめいめいじぶんの意志として、農耕生活を生きがいあるものとじ、いっぽう、肥料設計によって作物の増産をはかるという、精神と物質との両面からの改革運動だったのです。この場合、「宇宙意志」という人間以上の力を信じるのですが、それか人間をはじめ、宇宙間のすべての現象をつくり出す根源力であり、その力によってつくり出された各人が、めいめいの個性をできるだけ発揮することによって、まことの幸福に達する、という考え方なのですから、けっして受け身な行動なのではありません。「宇宙意志」の力と人々の力とが合わさって、大きな仕事が完成されるのです。
但问题是该如何处理这类社会阴暗面。《开罗团长》中通过“大王的命令”,恶势力在最后自然地破灭。但是,根本性的解决还是要靠雨蛙们自己的力量来完成。贤治创建的罗须地人协会的工作的重要目的就是要是疲乏的农耕生活更加积极向上。为了达到这个目的,一方面,要将为万人谋求幸福的宇宙意志作为每个人的个人意志,而赋予农耕生活以价值,另一方面,通过肥料设计谋求作物的增产,从精神和物质两方面入手施行改革运动。“宇宙意志”是创造了以人为代表的宇宙间所有现象的根源之力。在这种情况下,虽然要相信这种人类之上的力量,但有这个力量创造出的每个人绝不是被动地行事,二是要通过充分发挥自己的个性,达成真正的幸福。“宇宙意志”的力量与每个人的力量相互结合,就可以完成伟大的事业。
人間社会の悪は、「洞熊学校を卒業した三人」の主題にもなっています。洞熊先生が教えたことは、「どんぐりと山ねこ」の裁判で示される正しい価値の基準とは正反対のことです。競争とか、人を追いこして大きくなりえらくなることなどは、ほんとうは、そのようであってはならぬ状態です。かたして、三人の卒業生は破滅してしまいます。網で貪欲に食べ物を集めるくもは、利殖に目がくらんだ商人のことだと思われます。「虫けら院の名誉議員」になろうとするなめくじは、策略でひとをおとしいれる悪徳政治家、たぬきはニセの宗教家もしくは教育者です。いずれも社会にとって重要な仕事ですが、その心構えの悪いことによって破滅し、そればかりでなく他にも大きな害を与えるわけです。この作品も、時間の順を追った構成で、春→初夏→晩夏→初冬とすすんでゆきます。一つの挿話の区切り目ごとに、「たくさんのたくさんの眼の碧いすがるの仲間」が登場するのは、勤勉で幸福な、働く人々の寓意なのでしょう。
《洞熊学校毕业的三人》也表现了人类社会的阴暗面,洞熊老师所教授的内容,正好与《橡子与山猫》中的法官所显示的价值标准相反。竞争也好,超越人类变大变强也好,实际上都是无法实现的状态。结果三名毕业生都覆灭了。用网贪婪的收集食物的蜘蛛,是利欲熏心的商人。想成为“蝼蚁院名誉议员”的蛞蝓是耍手段诱骗人们的恶德政治家。狸是伪宗教家或者伪教育家。他们每个人都从事着对社会来说非常重要的工作,但都由于心术不正而覆灭了。不仅如此,还给别人带来了巨大的伤害。这个故事也是以时间来组织结构的,按照春→初夏→晚夏→初冬的顺序向前推进。每段故事结束的时候,许许多多的碧眼细腰蜂的出现大概是寓指着勤勉幸福地工作着的人们。
つぎに収録した「雁の童子」は寓話ではありません。原稿には、一ど書いて消してはありますが、「西域異聞三部作に属せしむべきか」という文字が見えます。西域は賢治が大きな関心を寄せている地方です。そこは、賢治が信仰する仏教が、中国を経て日本へとひまってきた経路にあたります。雁の童子を養育する「須利耶圭」は、西域の亀兹国で生まれた鳩摩羅什が師事して仏教を学んだ「須利耶蘇摩 」がモデルでしょう。賢治が信仰した妙法蓮華経は、羅什が漢文に翻訳したものです。また、西域が東西文化流通の路線であったことも、世界ぜんたいの人類の結合を念願とする賢治の注意をひいたはずです。彼が、海外の国名や地名などを作品の中にたびたび登場させているのは、単に異国趣味の好奇心だけではなく、もっと根源的に、時と所とのへだたりをこえて人間の精神が共通であることに対する感動がもとになっているのです。
接下来收录的《雁童子》并非寓言,在贤治的草稿上可以看到这么一句写下来又被擦去了的话:“似乎应归于西域奇闻三部曲”。西域是贤治寄予了极大关心的地方。那里正是他所信仰的佛教经由中国传入日本的途径。养育雁童子的“须利耶圭”大概是以“须利耶苏摩”为原型的。他师从在西域龟兹国出生的鸠摩罗什学习佛教。贤治所信仰的法华经,正是由这位罗什译为了汉文。另外,贤治一直希望全体人类联合起来,西域作为中西文化交流之地这一点也一定吸引了他。人类精神超越时间和地域的阻隔得以共通,贤治为之而感动。他经常在作品中使用海外的国名或者地名,不只是因为对异国情趣怀有好奇心,从更深层次来讲,是以这份感动为基础的。
さて、この巻の最後の二篇は、「ポラーノの広場」と「風の又三郎」二篇と合わせて、賢治の四大長篇童話と呼ばれる作品です。賢治は、あるメモの中で、この四篇を「少年小説」と呼んでいます。質的にも、量的にも賢治が力をこめた作品です。
接下来是本书中的最后两篇。它们和《波拉诺广场》以及《风又三郎合称为贤治的四大长篇小说。贤治曾在某处笔记中称这四篇为“少年小说”。不仅在质上,从量上来看,他们也是贤治凝结了心力的作品。
「銀河鉄道の夜」は主人公の少年、ジョバンニが、「銀河ステーション」から「夜の軽便鉄道」に乗って、北十字→南十字→プレシオスを経てマジェラン星雲をのぞむところまで、天空の旅をする間のことが主要な部分になっています。賢治が好んで乗った岩手鉄道や、妹の死について考えながら北海道へむけて夜汽車の旅をした時の詩、「青森挽歌」にうたわれていることがらなどの経験が素材とされています。
《银河铁道之夜》主要讲述了主人公焦班尼在天空之旅中的见闻。他乘坐夜行轻便列车,从银河车站出发,经由北十字→南十字→普列西斯星,直到临近马杰兰星云。在驶向北海道的夜行列车中,贤治沉浸于妹妹的死亡之中,写下了《青森挽歌》。他经常乘坐的岩手轻便火车,他在《青森挽歌》中所歌咏的事物,这些贤治自己的亲身体验,都成为了这个故事的素材。
この作品には、賢治の思想や感情の、もっとも賢治らしい点がいっぱいにふくまれていますが、その中心をひくとちにいえば「幸福論」です。「いちばんの幸」とか、「あらゆるひとのいちばんの幸福」ということばが十五、六回も出てきます。ジョバンニが「ぼくきっとまっすぐに進みます。きっとほんとうの幸福を求めます。」と決意するまでの経過を述べることが、この作の主題です。そして、幸福を求めようとする前提として、「さびしい」とか「かなしい」とか「つらい」などというジョバンニの心理や、友人カンパネルラの「死」などのように、およそ「幸福とは反対の状態」がえがかれています。このような「不孝」を見つめることが、つよく「幸福」を願い求める手がかりとなるのです。「カイロ団長」や「洞熊学校を卒業した三人」でも不正や不幸、つまりそのような状態であってはならない、という反対の側から論じているのです。
这个作品充分体现了贤治思想和感情中最具有贤治特色的地方。文章的主题一言以概之就是“幸福论”。文中“最高的幸福”“全体人类的最高幸福”这样的话语出现了十五、六次。故事最后,焦班尼说:“我一定坚定信念,我一定要找到真正的幸福!”叙述焦班尼下定决心之前的历程就是这篇文章的主题。文章还描绘了作为追求幸福的前提的几乎是“幸福的相反状态”——焦班尼的“寂寞”“悲伤”“难过”等一系列心理以及朋友柯贝内拉的的死亡。审视这样的不幸成为了强烈追求幸福的发端。从反面论证了《开罗团长》和《洞熊学校毕业的三人》也不应该落得个不正或不幸、即那种结果。
なお、「銀河鉄道の夜」で、どんなところにでもよける「ジョバンニの切符」というのは、賢治が深く信仰していた法華経の思想のことと思われます。法華経の教えによってどのような理想の境地にも到達できるということなのでしょう。仏教では、「教え」のことを、正しい境地に導く「乗りもの」といいますから「銀河鉄道の夜」という乗りものも、宗教と関係のあることなのです。それから、この作品に出てくる「第四次元」というのは「時間」のことで、それもただの時間ではなく、「永遠」という時間なのです。これは、「宇宙根源力」が「永遠」であること関係がありますし、この根源力のはたらき、つまり「まことの幸福」をもたらしたいという「宇宙意志」、とも関係のあることばです。また、賢治は「四次元」ということばもつかっていますが、これは「空間」の三次元と「時間」の一次元、ということで、「宇宙」のことを構成要素の上から説明したことばです。ですから、「第四次元」も「四次元」も「宇宙」のことで、一方はその性質から、一方はその构成の点からいいあらわしたことばなのです。
在《银河铁道之夜》中,可以通行无阻的“焦班尼的车票”可以认为是贤治所深深信仰的法华经思想。他大概是说,只要遵从法华经的教诲,就可达到任何理想的境地。因为佛教中将“佛法”称之为引向正确境地的“交通工具”,所以可以认为“银河铁道”这个交通工具也与宗教有着联系。在这篇作品中出现的“第四次元”——“时间”,也不是单纯的时间,而是“永恒的”时间。这是因为“宇宙根源力”是“永恒的”。而这是一个与“宇宙根源力”的机能,即想要“带来真正的幸福”的“宇宙意志”有关的词语。另外,贤治还使用了“四次元”这个词语。这指的是“空间”的三次元和“时间”的一次元,是一个从“宇宙”的构成要素方面进行说明的词语。所以,“第四次元”也好,“四次元”也好,指的都是“宇宙”,只不过,前者是从性质出发,后者是从构成出发进行阐释。
さて、このようにして、「まことの幸福」を求めようという決意にもどづいて、その決意の実践を述べたのが「ポラーノの広場」や「グスコーブドリ伝記」なのです。この巻に収めた「グスコーブドリ伝記」は、賢治が死ぬ一年前、昭和七年に発表した作品です。主人のブドリが十歳のときから二十七歳までの伝記で、「森のブドリ」「野原のブドリ」、そして「街に出てからのブドリ」の三つの大きな部分にわけることができ、そのなかで、飢饉と農業のことや、飢饉を防ぐための研究やその実践のありさまが語られています。ブドリのモデルとしては、賢治が農学校で教えた生徒や、苦学して化学を勉強したファラデーのことなども考えられるでしょうし、肥料を降らせるところなどは、肥料に関して農事を指導して歩いていた賢治自身の姿も織りこまれているようです。賢治はその生涯の最後の時期にあたって、この作品によって彼の農学や自然科学上の体験のすべてを整理して書き残していったのです。
就像这样,在追求“真正的幸福”的决心的指导下,叙述将其付诸实践的是《波拉诺广场》和《古斯克・布都利传记》。本卷中收录的《古斯克・布都利传记》是贤治去世前一年——昭和七年发表的作品。该传记讲述了主人公古斯克・布都利从十岁到二十七岁的经历,可以分为“森林中的布都利”“田野中的布都利”以及“来到城市的布都利”三部分。故事中讲述了农事和饥荒,以及预防饥荒的研究及其实践。布都利的原型大概是贤治在农业学校教书时的学生——埋头钻研化学的法拉德。而其中播撒肥料的情节也交织了在漫步于农田肥料指导的贤治自己的身影。贤治在其生涯的最后阶段,通过这部作品,将他在农业和自然科学上的体验全部整理书写,留传了下来。